◎ 神様たちのご挨拶
昨年の12月14日に、私が見せられた光景についてです。
実家に帰省していた際に、実家で祖母がお世話になっていた山岳信仰の神社へ、母を連れてご挨拶にでかけてきました。
田舎のさびれた教会で、その日はお焚き上げがあったらしく、数名の人が本堂にいました。
そこの監理をされている方に簡単に挨拶して帰るつもりでしたが、他の方達の相談にのられたりして時間がかかりそうだったため、
「また改めようか」
と母と話をして、車まで戻ろうとしたところ、何度も繰り返し
「挨拶をしていきなさい」
と神様からいわれるため、そこまで言われるならと思い引き返しました。
雪が舞う中、静かな本堂に焚かれたストーブの前の椅子に腰かけて目を閉じて待っていると、不意に本堂の中に何十何百という黒い着物を着た人たちが本殿に列をなしているのを感じました。
その方達は順番に挨拶しては、終えるごとに宙に消えていきます。
百人一首の男性の正装のような着物姿です。
松迎えという正月を迎える準備の期間ということを前日知ったのですが、先達という役割?があり、そういう人達の霊が新年を迎えるために挨拶に来ているのかな?と最初は感じました。
ほどなくして、そちらで修行をしていた亡くなった祖母も現れ、私と母をお祓いしてくれているのがわかりました。
その直後、その参列している中にとてもきれいな衣装と顔立ち、雰囲気などが際立つ女性もいます。
ひな人形のような感じで、こんなきれいな人がいるのかな?と驚くほどでした。
すると、そのあと、人の4~5倍はある異様な雰囲気の存在が入ってきたのですが、
「これは中で暴れるのではないか」と一瞬身構えかけたのですが、スと他の方達と同じ着物を着た人の姿になり、列に並んで挨拶をしていかれました。
神社など、私達が自分に都合よく思い描いた神様だけがいるわけではなく、様々な存在が出入りしていることを垣間見た感じです。
とりあえず、そこまでで感じた光景は終わりました。
「神様たちも新年を迎えるにあたって準備するくらいだから、施術を受けに来てくださる方達にもそのようにしなくてはいけないな」
と、感じ、その翌日から施術内容に気づきもあって、節分まではそういうことを続けています。
その施術を続けながら、その一連のことを考えていたところ、ぽつぽつとこれまでの知識とのつながりがみえてきました。
◎ なんの準備か
あまり意味のないことわざわざ見せることはないと思っています。
順番に紐解いていきます。
まず正月の準備ということで、旧暦の正月、つまり節分の翌日以降に向けたことであることは、感覚的にわかりました。
あの列をなしていた方たちは誰なのか。
あれは神様たちだった、というのが結論です。
では誰に挨拶に来たのか。
その山岳信仰で祀られているのが国常立尊(くにとこたちのみこと)(※名称が複数あり、とりあえずこの呼び方にしておきます。)でした。
大本教では「艮の金神(うしとらのこんじん)」と呼ばれており、世の中の立て替え立て直しをする神様とされています。
「それでなんなのさ」という話ですが、艮の金神は艮の方角に封印された神様で、この神様が封印から出てきたとき、世の中の立て直しをするよ、といわれています。
封印された経緯や、その件に携わった上位の神様との約束についても、すでに果たされていると思える根拠はあるのですが、それについてはいまはここには書きません。
ただ、その協会の本殿には、列をなす神様たちの数倍はある大きな神様がいました。
この神様については、実体そのものというよりは、ある意味象徴的な方便として見せられた可能性もあります。
ただ、封印が解かれており、神様たちが正月に向けて挨拶して次々に宙に消えていった様子を思い返してみると、それぞれの準備に向けて動き始めたという感じがします。
またお一人いらしたとてもきれいな神様についても、大本教のお話にでてくる「未申の金神(ひつじさるのこんじん)」または「竜宮の乙姫さま」とよばれる存在だったとあとで感じました。
その後ろに現れた存在についてはまだはっきりいしていないものの、ちょっと思うところもあり、今は保留にしておきます。
そして、「なんの準備か」の答えは、「大峠」です。
大峠については、社会システムの変革などをイメージしがちですが、すべての人が自らのエゴの歪みと向き合うことがメインだと考えています。
一人一人のレベルに起きることが、組織や社会に反映されて、大変革といわれているようなことが起きるのだと思います。
ひろかねさんから教えていただいた全肯定の考え方がどれほど重要なことなのか、ここに書いていないことなども踏まえて、知れば知るほど痛感します。
大峠が2月4日を境にいよいよ本格スタート、するかもしれません。
私は、個々に起きる実例をここ数年、先駆けて学ばせていただいていた可能性があります。
もしそんなことが世の中の人々に一斉におこれば、地上天国と地上地獄が入り混じったとんでもない混とんが生じることでしょう。
それを踏まえて大本教の本や過去関わらせてもらったワークの本を読んでみても、やはりそうかもしれない、と思えてきているのです。
時節を伝える、という役割として、一応今回はざっくり書きました。
経済も戦争も疫病に自然災害など、確かに生活に与える影響は計り知れません。
しかし、目を向けるべきがどこなのか、心底思い知らされることが起きる可能性があるとだけ、書いておきます。
実際にはそこまで極端なことは起きないような気もしますが、実際に起きるまでは、私たちはさまざまな思い込みの中で日々を過ごしていくのです。
◎ つけこまれる隙
全肯定、方向性をだす、よりよく生きる、エゴのチェックとコントロール、特別視など、このあたりのことは繰り返し書きながら、私自身もひろかねさんに教えてもらったことの理解に努めてきました。
エゴがしゃしゃり出てくることが、この先極端に増えるかもしれず、もう少しはっきり書くと、地獄に引っ張る力が強くなると思います。
その人の考え方にあった世界に行くだけなので、地獄といってもかえって過ごしやすく感じる人もいるかもしれませんが。
生きづらくなる、ということを突き詰めると、地獄に向かっていくわけです。
生きやすさを積みかさねた先の理想は天国でしょうか。
どこに向かおうが個々の自由です。
いまここに生きている時点で、すこしでも自分が生きやすく納得できるようにしていくことが大事だと思うので、そういう方向性でこのブログを書いています。
そちらを目指すのであれば、意識して方向性を出してしゃしゃり出てくる歪んだエゴ(思い込み)をチェックして、自分がきづらくなるような言動を控え、生きやすくなるようなことに置き換えていく力を身に着けていくのです。
2月4日以降、極端なことはともかくとして、自身に対しても他者に対しても、歪みの表出が増えることはあるだろうと考えています。
その場合、いつもならそんなことやらないのに、言わないのに、ということが増えていきます。
無意識にやることなすことが、自分にとってあとで困ることになります。
一つ一つは小さくても、そういう積み重ねはじわじわ締め上げていくため、ほっておくと生きづらさが日増しに強まっていきます。
冷静で落ち着いていれば大丈夫であれば、焦ったり、感情にのまれたり、疲れたり、眠かったり、浮ついて調子に乗っていたりしたときに気を付けることができればいいだけです。
無理にその場で決断しないで持ち帰って相談したり、日を改めて冷静に対処することをすれば、それだけでも結果が変わってきます。
振り回されてこちらも感情的になれば、そこをつけこまれますし、おだてられて信じ込んだりすると、その先で足元をすくわれることだってあります。
特にあぶないのが、自分で判断しないで言われたままやってしまうことです。
自分がないと、かんたんに取り込まれて自分を取り戻す暇もあたえられないまま悲惨なことになります。
ここ数年で世の中はずいぶんと様変わりしてしまいました。
それもこの時期に向けた仕込みだったと思えてきます。
なにも大したことがなければ、穏やかに過ごせるなら、それはそれでいいと思います。
ただゆったりとはいえ、全体的に向かっているのは今日書いた方向だと考えています。
(とりあえず急いで書いたので、加筆修正、もしくは新たに補足なども含めた内容を更新するかもしれません。)

