責任転嫁と自己犠牲

〇責任転嫁することは

 

責任転嫁することについて、最近お話しをする機会があったので、書いておきます。

 

これからの時代、自分がないと生き残っていけない、というお話がありましたが、そのなかで責任転嫁するということがどういうことか。

 

簡単にいうと、他に任せられるような生き方、自分がない(弱い)生き方をしているんだよね、ということです。

 

自分で判断して生きているとき、どうでもいいことは別として、それは自分がやりましたと責任をもてることをやっているかどうか。

 

それは私がやったことではありません、と責任逃れすることも一つの考え方ですが、代わりがきく生き方、自分でなくてもいいもの、誰でもいいということになれば、どんどん都合のいいほうばかり選ばれてしまい、力が伴っていなければ生きづらくなっていきます。

 

同じ値段ならより質のいいもの、量の多いほう、同じ質ならより安いほう。

 

これから経済が傾いていくとすると、そういうことが各地でさらに拍車がかかって起きていきます。

 

国が国民を監視して支配するかのように統治して、自分がない国民性を高めていったら、その国はどうなっていくでしょうか。

 

やり方や程度は違えど、今の時代はどの国も同じようなものではないかと思います。

 

そのため、世界全体が不安定になってふるい落としのようなことが起きます。

 

疫病も自然災害も経済不況も、それぞれの課題を浮かび上がらせる機会になることもありますが、責任転嫁が癖になっているような人は、とっさの時に自分で判断して決断することが鈍くなります。

 

 

 

一見他国のせいにして人々の移動を制限しているように見えても、実際は違う思惑で動いているとしたらどうでしょうか。

 

国内情勢を隠すために行っているとしたら、それが今後さらにひどくなったらどうなっていくのか。

 

考えなしに上に言われるがまま従っていると、あと半年もした時に、なんであの時考えなかったのか、と途方に暮れる人たちがいるかもしれません。

 

数年前に世界で起きたことにも言えますが、今回の騒動のなかで、それはすでに始まっているように見えるのは私だけでしょうか。

 

いまのところ日本についてはそこまでではなく、前回も書いた通り、権力を持つ人たちは「動かす」ことをやっているため、また違う立ち位置、違う課題に向き合うことになります。

 

しかし、この「動き」は今後世界中に様々な形で波及していくようです。

 

 

 

〇自己犠牲からの脱却

 

その有り方がきっちり「自己犠牲」と言い切れるものではないかもしれませんが、今回の騒動で日本側が自己主張している流れは、これまでの犠牲傾向なあり方に待ったをかける大事な局面です。

 

そしてそれは、そこに付け込んで責任転嫁してくる人たちに対して、NOという意思表示をすることにもなります。

 

現状を変えたくないエゴ主体の考え方からしてみたら、責任転嫁する側はもちろん、犠牲になる側に慣れて事なかれ主義で穏便に済まそうとする人たちにとっても、とても受け入れがたい態度をしめされたことになり、ざわつくのは当たり前です。

 

さまざまな思惑が絡み合っているので、見方はいろいろあると思いますが、責任転嫁を拒否することにより、他国に押し付けられなくなった問題は国内で火種に変わります。

 

またこれまで預けてきた様々なものは、いわゆるカルマですから、生きづらくなることをさんざんおしつけていれば、それは結局一時的に預けていたにすぎず、預けた先からこれから連鎖的に突き返される可能性もあります。

 

しかし、これはどの国も多かれ少なかれやらかしていることはあると思うので、全体が動くとあちこちでカルマが返ってくることが起きるかもしれません。

 

ただ、その口火を切るのがどこになるのか、というのがいまの現状でしょうから、大国の押し付け合いでどうなっていくか、という感じがしています。

 

何回か前に書いたと思いますが、流れを歪めて生じたしわ寄せの反動が、今回の動きの燃料にもなっているような気がします。

 

一見このまま穏便に終わるようなことがあったとしても、時間の問題だと思います。

 

熊が出ようが、国家同士で喧嘩しようが、自分たちの生活の面倒は自分でみるものです。

 

自分の手の届く目の前のことを、自分のためになることを、やっていきましょう。

 

意味のあることとは、自分のためになることです。

 

自分のためになる生き方ができたとき、意味のある人生になります。

 

なにもしなければ、意味のない人生になるだけです。