6回目の頃

◎ひとつの時節

 

以前書いていたかもしれませんが、改めて書いておきます。

 

日本で5回目を終えて6回目を迎える頃、大きな転換期を迎えるといわれています。

 

本格的な訴えの動きがでてくる、と。

 

実際にどうなるかはその時にならないとわかりませんが、もしそうなれば、世の中の空気、とりわけ熱心に取り組んできた人たちを取り巻く環境が一変するのではないか、と考えています。

 

事なかれ主義を貫かんばかりの熱意で4回目を迎えた人たちは、そこから先も事なかれ主義でいくのかもしれません。

 

そうはいいながら、自己犠牲でありながら責任を取りたがらない姿勢から、被害者意識に苛まれたり、自他を憎み呪うような思いに囚われていく人もでてくるかもしれません。

 

ただ、つよい否定の思いが渦巻く世界を自ら構築し始める人たちが増え始めると、その思いに基づいた行動がより広い範囲での運命を一つの方向に動かし始めます。

 

 

 

一方で、現状を安易にあきらめないで、対策を講じたり、調べて考えて動いたりしている人もたくさんいます。

 

老化現象がこれから進むと、そこに現れる弊害の一つは頑固さかもしれません。

 

自分が一番正しいという思いこみがさらに強化されると、問題へのよりよい対処方法があったとしても、それを受け入れたくない、認めない、ということが邪魔をすることもあります。

 

結局、自らの負のループにはまり込んでいくかのようです。

 

自分の運命を自らが構築しているから当たり前ですが、だからこそ抜け出ることも自分でできるのです。

 

自分の無意識の思い込みに気づいてそれを修正していくことで、そのループから抜け出ることはできます。

 

ただ、早い段階で気づいていれば修正もかけやすく軽い負荷で済みますが、ここまできていると抜け出ることはもちろんのこと、先ほど書いたように頑固さが増していくことで気づくことすらままならなくなっていくので、大変です。

 

 

 

これまで通り特別なものを求めたり、責任を負いたくないがために特別な人や世間で立派と思われている人、公的機関や大きな組織などから出される情報を盲目的に信じて生きることを続けていけば、自分ができていない当たり前のことを聞こうともしなくなります。

 

それでは、それが自分がよりよく生きていくために大事なことであると気づくはずもありません。

 

運命の分かれ道から、それぞれに歩みを進めてきた分だけ離れてしまった人もいると思います。

 

痛い目をみて気づくにしても、痛さの度合いもこれからは増していくことでしょう。

 

それでも気づいて変えようと思えたなら、それはチャンスです。

 

思って、そこからどうしたらいいのか考えることができたなら、さらにチャンスは増していきます。

 

考えたことを行動にうつせれば、運命はかすかに動き始めます。

 

その行動が自分の求める方向にあっていればあっているほど、運命は大きく動き出します。

 

結果が出るまでには時間がかかりますし、これまでやってきたことが先に返ってくることもあるため、すぐに思うようになってはいきませんが、そこをあきらめないで頑張っている人たちがいることも確かです。

 

あきらめずに続けることで、少しずつ自分たちが思うような展開に近づいていきます。

 

 

 

この世界を好き勝手に都合で振り回している存在がいるとして、その存在もまた時間とエネルギーを費やして今の結果を得ているのでしょう。

 

ただ、完璧な存在はいないので、どこかで歪みをはらんだ取り組みになっており、その歪みを転嫁し続けるからこそ、ここまで続いてきたものがあるはずです。

 

嫌なもの嫌と言えるかどうか、これだけでその転嫁は減ります。

 

嫌なものを嫌と気づけないから、むしろ自分に得があると思い込むから、この状況は続いていきます。

 

私たちがどうしたいのか決めないうちは、人の都合を無防備に受け入れたり肩代わりしてしまうこともあるでしょう。

 

自分の幸せのために生きていきたいのであれば、何が自分にとっての幸せか考え自覚していく必要があります。

 

その幸せのためにどうすればいいか考えられるようになると、合わないことをやる機会も減っていきます。

 

新型コロナのワクチンに感染予防効果があると信じられていたものが、あるメーカーではその根拠がなかったことが欧州で先日明らかにされたようです。

 

その話以前に、すでに感染予防効果がないことはある時期から暗黙の了解のようになり、重症化予防にその目的が挿げ替えられていきましたが、他にもこれから明らかになっていくことにつれて、自分たちの目的に合わないことをやった結果がどうなっていくのか知る人も出てきます。

 

そこで修正をかければ、同じ過ちを繰り返さない、とも言えますが、反動で過剰に強い否定になれば、またその強い否定を改善するための経験をどこかですることになるでしょう。

 

私たちは完ぺきではないので、何度も繰り返し修正をかけながら、自分の思うような生き方に近づけていきます。

 

ほぼ歪みで真っ黒になっている世の中にあり、私たち自身不完全な存在であるため、そうは簡単に納得のいく選択が見つかることはありませんが、完璧なものなどないのですから、わからないなりに今ある中ではこれはまだマシ、というものを選んでいけばいいのです。

 

 

 

今日になって、新たな揺らぎが水面下で高まり始めているような嵐の前の静けさ、そんな感じがしています。