現実に目を向けながら考える (前回の補足として)

◎現実の問題として目を向けて考える

私たちは、日々心配しないで食べていければ、安心して暮らせます。

 

しかし、これからの世の中について、そうならないであろう根拠の方が目に付きます。

 

例えば中国のような大国で、これからの食糧事情が危ぶまれています。

 

大雨による水害を始め、家畜の病気の蔓延、来年以降も被害が拡大する恐れがあるバッタの問題、コロナによる様々な影響など。

 

約1年ほどの間に起きたことを少し調べればわかるこれらの情報から考えても、これまではなんとかなっていたものが、このままだと大変なことになりそうなのです。

 

人口の多い中国国内の食糧事情が悪化すれば、周辺諸国はもちろん、海外で暮らす中国の人たちが母国に支援として送るために、手を尽くしてその各地域で食料をかき集めることも考えられます。

 

なにより、その量が膨大であることが、他国へのつよい影響となっていきます。

 

今後中国の食糧事情が大きく悪化し始めるころには、日本をはじめとした諸外国も同様に食糧事情が悪くなっていくでしょう。

 

国内外で互いにどこにも頼れない状況に陥るようなことになれば、私たちは安心して暮らせる毎日から遠ざかっていくことになります。

 

 

 

 

◎失業者が増えれば

また、日本もそうですが、各国が財政出動をして大規模な経済対策を行っています。

 

それが借金をして行われていれば、たいていは税金や既存の制度を改変して賄うことになるので、私たちの負担となっていきます。

 

規模が大きくなれば、その後の負担も増します。

 

また、すでにいまもそうですが、リストラや倒産による失業が今後さらに増えていくことが予想されています。

 

お金は働いて稼ぐ人が大半で、今の世の中、お金がなければ困るのはごく当たり前の話です。

 

失業者が増えるということは困る人が増えるということであり、生きづらい世の中になるということです。

 

今後も引き続き失業者が増えていくということになれば、能力が高い人が会社に残され、能力が低い人が失業しやすくなります。

 

会社の経営状況が危ぶまれるようになったとき、どちらの人を会社側が選ぶか考えれば、それはすぐに答えがでることです。

 

その能力が高い側にいるのか、低い側にいるのか、自分がどちら側か考えてみてください。

 

また、能力とは別に、一緒に働いていてもやりづらい、社会性がない、そう思われていても会社に残れない可能性が高くなります。

 

そういうことは自分が日ごろからやってきたことで判断されるため、社会性や人との関係性についてなど、ブログにも書いてきました。

 

いまのところはまだ持ちこたえている組織もありますし、業種によっては景気がよくなっているものもありますが、偏った景気であればあるほど、どこかで無理が生じてくるものです。

 

人が生きることに関して、食べることはとても重要ですので、食糧事情が悪化して実生活に問題として現れるようになると、生きづらさが格段に増します。

 

(一部の)景気がいいということを報道で目にしても、実際に自分とその周りで景気が良くなければ意味がありません。

 

食糧事情が悪い中で食べていくためには、貯えがあるか、生活に困らないだけのお金が稼げていた方がいいでしょう。

 

そうでなければ、食べていくだけでも大変です。

 

また、働こうにも失業してしまえば、再度働き口を見つけなくてはいけません。

 

しかし、大量の失業者の中で選ばれるだけの根拠があなたにあるでしょうか。

 

能力のある人から選ばれていく中で、自分はどこにいるのでしょうか。

 

さらにそこで税金が増え、生活保護や年金がなくなるようなことがあると、例え一定量の補助が得られても、死ぬまで働かない

と食べていけない人も多く現れます。

 

しかし、能力が低く年齢が高いほどに就業は難しくなるので、生きる力が弱い人ほど苦しい生き方になるのです。

 

生活がよくなる根拠となるものよりも生活が苦しくなるであろう事柄が目の前に次々起こっている中で、私たちがそのことから無意識に目をそらせている間にも、生きづらさが増していくことになります。

 

生きやすくなる人は生きやすくなるなりのことをしていますが、それを十分にしないまま何とかなると思っている人は、自分がどの範疇に入っているのか考えてみるといいと思います。

 

なにもしないまま過ごしていれば、これからはどんどん生きづらくなることが増えていきます。

 

生きやすくなることをしなければ、生きやすくはなりません。

 

やってるつもりで満足して、自分が幸せだと納得できればいいことですが、変わらなければ、結果がでなければ、やってないことと同じになるのですから、「つもり」で済ましていて大丈夫でしょうか。

 

 

 

 

◎言い訳してもいい

個に立ち返るとか、負荷を感じやすい時期とか、神さまからいわれてここに書いてきていますが、実際は言い訳の依り代を与えているに過ぎないのです。

 

(余談ですが、私自身は個に立ち返るというのは、自分のあほさ加減に気づく時期だと思っています。)

 

時期がどうとか、暦がなんたらとか、月の満ち欠けが、みたいなことは確かに何らかの影響があるものですが、疲れていても調子が悪くても、例えばこれやらないと命がかかっている、という時にやることやらない理由にはなりません。

 

必死にやる、というのはそういうことです。

 

いま私たちが置かれている状況は、短期的にはそうは思えなくても、中長期的に見れば命がかかっている事態です。

 

エゴ主体で生きている私たちには重大な局面にあるのですが、エゴの視野が狭いことで、その視野を越えた先の展開まではなかなか考えることが出来ず、都合野いい展開を期待したり、都合の悪いことから目を背けるなどして、目の前のことを軽んじてしまうこともあります。

 

(よくよく考えればわかることですが、必死というほどではなくても、日常の様々な選択の場面もまた、自分の運命がかかっている大事な場面の連続です。)

 

私たちは一時的にエネルギーが増えたとしても、自分が見て気づいて判断するという能力以上の事はできはしないのです。

 

どんなにがんばって生きている人でも、いつもうまくいくことばかりではありません。

 

時にくたびれて動けなくなることもありますし、思うようにいかないことで落ち込むこともあります。

 

それぞれの段階で精一杯やっているのであれば、それはとても大事なことだと思っています。

 

だから時にはその人に応じたところで、我慢しないで言い訳したい人は言い訳すればいいですし、休みたければ休めばいいと思います。

 

思うようにいかないのが当たりまえですから、近づけることはできても、思うような結果になるとは限りません。

 

しかし、そこでとどまらず、気を紛らわせたり休むことで少しでも意欲を取り戻し、気を取り直してがんばるところに立ち返って納得いくところまでやることはできます。

 

そこまでやることで、これからの世の中で後悔少なく生きていくことができるようになっていきます。

 

 

 

 

◎賢く生きられるように

いつかどうせやることならば、痛い目をみながらなにかやるよりは、やりたくてやっていけた方がはるかに幸せな生き方ではないでしょうか。

 

わからないなりにでも、よりよく生きると決めて取り組んでいければ、実践で理解できることが増えるほどに、例え嫌々やっていることであってもそういうものは減っていきます。

 

自分の思いにウソをついて生きる必要はありません。

 

依り代でもなんでも、それはそれで上手にいかしていけばいいことです。

 

あるものは自分のために上手に使えばいいのです。

 

必要な人もいるだろうと思って書いていることですから、それが自分の成長や幸せに役に立つ人は、大いに役立ててください。

 

落ち込んだときに自分の意欲を引き出したり、焦って自分を見失っときに落ち着けられるなら、自立に向けてた取り組みの中で、立て直しや仕切りなおしに活用すればいいのです。

 

現実はやることをやらないと何も変わりません。

 

言い訳しても、やったつもりでも、時間切れで途中であっても、そこは結果をみれば明らかになるものがあるのです。

 

この先に待ち構えているものは、そうしたことをよりはっきりと私たちに明らかにします。

 

それを目の当たりにしたとき厳しく感じるかもしれませんが、そのことを認めていければ、それを機にまた一つ成長していくこ

ともできます。

 

そこで自らの愚かさや幼さや未熟さやアホさ加減に気づけたなら、その気づいたことに基づいて考え方を見直し、不満の残らない考え方や、それまで問題に感じていたものが問題にならなくなる考え方に変えて行動に移していくことで、自分をよりよく変えていくことができます。

 

これがどれだけありがたいことか、私自身この先で何度も痛感するのではないかと思っています。

 

神さまでさえ、この先どう転ぶかわからないと言っているのですから、甘い偏った期待に生きるよりも、どう転んでもいい選択を私たちはしていく方が賢い生き方でしょうし、以前と比べれば厳しくなっていますが、この先のことを思えばはるかに容易にそれを選べる段階にいままだあるのです。

 

 

 

長くなりましたが、今回は前回の補足として書きました。