特別視とエゴのチェックとコントロール

◎いまは徐々に

 

今後の事については、いまのところ取り立てて特に感じているものはありません。

 

8月はまだ猶予期間として比較的穏やかな時期ということですが、厄災としての自然災害はすでにこまごまと積み重なったり、各地で発生しているため、4月に書いた感じで改めていうことはなさそうです。

 

人々の心の乱れも、徐々に大きくなり始めているところもあります。

 

しかし、基本的に弱いものから消えていく、という段階にあるため、まだ大きく表立って激しく変化を感じる時期ではありません。

 

9月の中旬に満月があり、その後秋分の日へと移行していきますが、その頃を境にして、いまの時期に対して感じている明るく開放的な感じが、陰鬱で寒々しいどこかさみしさが漂う雰囲気へと印象が変わります。

 

台風などもその頃以降で発生するものがより大きな被害をもたらしそうで、一段厳しさが増していく時期になると感じています。

 

 

 

◎大河の後半は

 

洞窟を抜けて大河にでた後、前半は穏やかですが、後半は激しく流れの序章になる気がしています。

 

大海に出てからは、それぞれでまったく取り巻く状況に対して抱く印象が異なるため、住む世界が全く変わってしまったかのようになるのだそうです。

 

9月半ばころまでの過ごし方が、大きく影響します。

 

いますでに身の回りで不幸がある方などは、この先の大変さを垣間見ていることになります。

 

身近で一人亡くなるだけでどれほどつらく感じることでしょうか。

 

亡くならないにしても病気で倒れる人、失業してお金に困る人、ケンカが絶えなくてどんどん孤立していく人、自分も含めて周りで親しくしている人たちがそうなっていくだけでも、心穏やかに過ごせるものではありません。

 

免疫の話で穏やかさが大事であることはすでに書きましたが、これからそういう状況にありながら穏やかに過ごしていくことの難しさを、その時になって知ることになる人も少なくないようです。

 

一部の人に向けたメッセージもそうですが、自分が該当するかも、と思ったのであれば、その時やらないと変わっていきません。

 

 

 

◎主導権をしっかりと

 

周りの変化を待ってどうこうしていても、自分が行動に移さない限りはなにも変わっていかないのです。

 

自分ではどうにもできないところに決定権を預けてしまうと、自分の判断ではない生き方をしていることになりかねないのです。

 

その例が「コロナが収束したら・・・」という言葉を信じて自粛に徹しているケースです。

 

いつ収束するかわからないものをずっと待ちたいのであれば、それは好きにすればいいのですが、自分が幸せに生きたいと思い、必要最低限の基準としてお金を稼ぐことをしないと生きていけないレベルにあるなら、自粛していて稼げるはずがないのですが、その先でどういう結果が待っているのか考えなくては幸せになれるはずがありません。

 

「できない」で思考停止させるのではなく、今おかれれている状況でなにができるか、どこまでやれるか、そこから考えていくのです。

 

また給付金も賢くもらえばいいのですが、そればかりをあてにして何もしないでいれば、お客さん相手の商売をしている場合、お店を再開した頃にはお客さんが寄り付かなくなっているため、ほとぼり冷めた頃に再開しても売り上げが大きく落ち込んだまま回復するまでもたないで店をたたむこともあるでしょう。

 

コロナにしても、売り上げの保証にしても、自分に決定権がないものをあてにしていては、自分に都合のいいことを基準にことがなされない以上、振り回されるかのように感じながら疲弊していくことになります。

 

他人の都合、未来のこと、過去の出来事、いま目の前にないこと、この先どうなるかわからない中そういったものを気にしていても、今の自分のためになることはありません。

 

いまできることの中で自分の幸せのためになることをどこまで気づいて取り組めるか、それがいまの猶予期間に取り組むべきことなのです。

 

それをやらないでおいて、あとで困った困ったと騒ぎたてるのが、エゴ主体で考え無しに生きている私たちです。

 

 

 

◎できないことではなく、できることに目を向ける

 

自分で商売をしている方であれば、固定費を少しでも抑えるように改めて家賃交渉や光熱費を見直す、また自粛になっても売り上げを落とさないで済むサービスや商品を考えてみる、うまくいっているお店に見学に行ったり調べて少しでも使えそうなアイデアや仕組みを見つけてくる、などはできることです。

 

仕事で在宅勤務が続くようなら、家族との関係性や家事の分担を考え直してみるのもいいかもしれません。

 

体を休めたり鍛えたりもできます。

 

いまできることの中で、自分が幸せを感じることをやる、自分や家族や身近な人たちが生きやすくなるように思いを巡らして考えてみる、気づいたらすぐに行動にうつしていく、いまそれをやらないでいつやるの、というところです。

 

自分が少しでもものをわかっていると、マウントを取って偉そうにする人もいますが、わかっているからこそこうした時に頼まれたら親身になって話を聞いたり手伝ったりできるようになると、それまでの自身の特別視も薄らいでいくことがわかるはずです。

 

偉そうにあれこれ言ったところで、自分のみならず一緒に過ご家族や同僚の役に立つことをなにもしていなければ、それはひけらかしたり自惚れて増上しているだけかもしれません。

 

 

 

◎対等公平

 

ひろかねさんとお話をしていると、抑え込まれたり否定で言われることがないため、意欲がでてきます。

 

言葉に力があるのです。

 

(これから私が感じているような陰鬱とした世の中に入っていくとしたなら、意欲を引き出せる肯定形の言葉を話せるかどうかは、その人の運命を大きく変えていくことでしょう。)

 

アホにはアホと言いますが、対等公平ということを踏まえているため、イヤな感じがしません。

 

以前は徹底して対等公平を貫いているように私は思っていましたが、最近は、当たり前のことと理解しているから出ないだけなのだと思うようになりました。

 

対等公平を当たり前と思える、というのは言葉では簡単ですが、ゴールできるレベルだからこそという感じです。

 

対等公平をクリアしないと、存在するものがすべてあることをわかるはずがありません。

 

ずいぶん前にも書きましたが、特別視は最後の最後までついて回るものです。

 

ゴールするまで、エゴのチェックとコントロールは続きます。

 

方向性をだしてエゴのチェックとコントロールをずっと続ければ、いつかゴールできるといえるのではないか、そう思って取り組む毎日です。