これまで、私たちは弱肉強食の世界で生きてきました。
おおきな歪みを抱えてのその在り方は、さらなる歪みを生み出します。
互いに生きづらくならないように配慮したり、生きやすくなるように心がける、そういったことがなく「自分だけよければいい」という生き方を力をもった存在たちが行使することで、弱者は肉となり、この世界で大半を占める私たち弱者にとって生きづらい世の中が続いていきます。
強者にとっての都合のよさを善、都合のわるいことを悪とし、付き従うものや弱者にはそれを教え込んだり躾け、信じ込ませたり強要することで、この世界は保たれてきました。
理不尽がまかり通る世界です。
だれかに自らのしりぬぐいを押し付け、負うべきものを負わずに済ませるものもいます。
一方で、考えなしに生きることで、自ら人の歪みを背負いこむ人たちもいます。
その責任がその人自身にあれば他人のせいにはできないのですが、そういう人に限って一方的な被害者のような振る舞いで、自ら招いた失態を自ら拭おうとはしません。
理不尽のように思えても、なんらかの選択肢を与えられ自らそれを選べば、理不尽ではなく自分が愚かなだけだった、という場合も少なくないのです。
つまり、何かを押し付けたように思える者たちは、賢く自らが責任を取らなくてもいいようにしたり、軽く済ませてしまうこともしているのです。
「よりよく生きる」という方向性をだすことで、それを踏まえて考えるため、気づく機会が増えますし、気づいたものを流してしまわず、反省することもできるようになっていきます。
そこから、考えて終わらせることもあるでしょうが、よくなっていかなければ意味がないので、自らを改善するよう取り組みを実際に行動に移していきます。
そこまでやると、結果が変わってくるため、その結果をみて最初は思うような結果でなければ、修正しながらさらに良くなるように行動を変え続けていきます。
その過程で、周りの人たちとの関係性から学ぶ機会もあるでしょうから、自分が生きづらくならないためにはどうしたらいいのか、いろいろなことを踏まえて考えることで、成長していきます。
一度にすべてをよくすることなどできやしないのですから、気づいたところからやっていけばいいのですが、「少しずつでもよくしていこう」という考えがないと、まず気づくこともありません。
そうなると、それでも気分よく生きたい、過ごしたい、という思いがあるのが人間なのですから、なんとか気分よく過ごすために無理やりこじつけて、周りが何とかしてくれる、周りがよくなってくれれば自分は勝手によくなっていく、という勝手な都合を信じて毎日を過ごしていきます。
時になにもしないでよくなることもあるかもしれません。
しかし、力をもった存在たちの都合でうごくこの世の中で、そんなことが何度もあるわけがありませんし、なにもしないで身を任せていれば、誰かの意向に反対しないで賛同したことになり、利用されて生きづらくなっていくことのほうが増えていくでしょう。
仮にうまくいったとしても、それは誰かの意図があって利用されて持ち上げられているだけかもしれません。
エゴはこの世界に存在し続けたいという本能というか強い思い込みがあります。
ここは形ある世界で変化し続けているので、自分を保とうと思っても何もしなければエネルギーは目減りしていきます。
生きる意欲があり、その意慾を行動に移すことで気分よく過ごすことができれば、エネルギーが満たされることもありますが、生きづらく感じればエネルギーが減ってしまうこともあります。
性格もあるので、一様にそのようになるわけではありませんが、思うようにいかないよりは思うように生きられたほうが気分はいいものです。
自分の思うように生きたければ、どう生きたいのか考え、意思表示することが大事になります。
なぜなら、私たちは他者とともに社会生活を営んでいるからです。
エゴは生存本能で自らをこの世界に保とう、残そう、とします。
そのため、自分のことを最優先で考えます。
エネルギーを少しでも節約して、できるだけ効率よく確保しようとします。
癖や習慣化することで、考えることによるエネルギー消費を減らし、維持しやすいようにもできます。
地道にコツコツと、が大事な理由がここにあります。
自分にとって大事なことや有用なことを習慣化できれば、より生きやすくなります。
これはエゴを上手に活用する方法です。
しかし、「自分のことを最優先で考える」という面が基本にあるので、エゴをコントロールするどころか、まちがった思い込みに振り回されて、多くの人は周りをふまえず自分のことだけしか考えない、という生き方になりがちです。
いろんな生きづらくなる思い込みが積み重なって、がんじがらめになってしまっている人もいます。
ともかく、自分のことしか考えないことは、この世界ではある意味当たり前のことです。
ですから、そのことに怒る必要はないと思いますが、それで迷惑をこうむれば文句をいったりやり返したりすればいいだけです。
ここでさっきの話にもどりますが、私たちはそういう在り様で生きているため、意思表示をしなければ誰かの都合で物事が決まっていきます。
全く同じ人などいません、人の数だけ違いがあるので、意見の相違も微妙なものから大きなものまでさまざまです。
誰かの都合ということは、その都合の内容が自分に合う面もあれば合わない面もあるということ。
自分に合わないことが多ければ、それだけ自分がやりたくないことをやる羽目になったり、生きづらくなったり、目指す方向に向かって取り組む機会を損なっていきます。
私たちの肉体には寿命があります。
元気に活動できるのは、さらにもっと短い期間です。
やったことの結果が出るまで時間がかかることがあり、修正しながら目的に近づけていくことを考えると、ある程度効率的に取り組むことも考えなくてはいけません。
人間一人でできることには限度がありますが、目的の合った気の合う仲間がいれば、目的に合った協力を得ることで効率よく自分に都合のいい変化を得られることもあるでしょう。
一方、目的ももたず行き当たりばったりでまわりに振り回されている間に、あっという間に年を重ねて人生を終えていくのであれば、意味のある人生だったといえるでしょうか。
自分のためになることをやってこそ、意味のある人生といえるのではないでしょうか。
互いに生きづらくならないよう配慮しながら社会生活を営めれば、助け合うことで生きやすくなる場面もでてきます。
意思表示をしなければ、賛同したとみなされて物事は進んでいきます。
意思表示をしてそれが伝われば、それを無視することはなかなかできません。
悪意があれば別ですが。
弱肉強食の世の中ですから、食べる側の都合は肉をいつどうどれくらい食べるか、です。
意思表示しなければ、一方的に利用されていきます。
意思表示しても一方的かもしれませんが、それでもなにもしないで終わるよりは後悔が少ないでしょう。
意思表示するにしても、日ごろから自分がどう生きたいのか考えていないと、言葉にできないかもしれません。
漠然とでもいいので、自分がどう生きたいのか、何を目指しているのか、少しずつでも考えていくことです。
それによって、自分の思いや方向性にすこしずつ肉付けがされ、いろがつき、血が通い、具体的な思いとなって意慾がわいてきます。
そして自分にとって意味のあることがわかるようになり、意味のある事ができるようになるため、意味のある人生を送ることができるようになります。
一方で後悔の少ない人生にもなっていくことでしょう。
アメリカの大統領選挙やBRICSの台頭などで世界は確かに変わるかもしれませんが、自分がよくなることをしなければ、結局取り残されるだけです。
これまで陰に隠れていたものが引っ張り出されているようなので、これから世の中は大きく変わり始めていくことでしょう。
お金中心だった世の中が、資源をもつものの都合でお金をコントロールする機会が増えるのがBRICSが引っ張る世界です。
これまで植民地などになって搾取されていた国々と搾取していた国々の立場が、ここにきてひっくり返り始めています。
おおきな変化が始まっていますが、テレビをめったに見ないためわかりませんが、ほとんど報道されていないのではないかと思います。
そのため、テレビ報道に依存している人たちが、浦島太郎のようにある日気が付いたら世界がガラッと変わってしまっていた、と感じることが、これから多くの日本人に起きるのではないかと考えています。
自分たちにとって都合よくガラッと変わればいいのですが、現状維持しながらよくなることをしないことの結果がそうなるはずがありません。
文字通り、気づいたときには浦島太郎のようになっているのではないでしょうか。
さきほど少し書きましたが、「資源」という言葉が一つキーワードのようです。
日本という国土ではなく、自分自身をもう一度見直してみること。
資源という言葉をそのまま使うのは違和感があるので、いずれまた違う表現をするかもしれませんが、なにかにすがるのではなく、自分の能力をとにかく高めていくこと、ということを改めていわれました。
このことは、何年も前からここで伝えてきたことでもあります。
これまでと比べて程度や質の変化はあったとしても、先ほど書いた世界の変化、これで弱肉強食が変わるわけではないともいわれています。
自分を高めていくこと、よりよく生きること、この世界で生きていけるよう食べていける力をつけて磨いていくこと。
今一度考えてみてください。