慌ただしさとあり方と

◎ドンパチ起きそうな気配

 

ネットを見ていると、なにやらあちこちで火種?大きな情勢の変化になりそうなことが次々起こっています。

 

これまでの社会情勢の主権が大きく移り変わっている最中なのか、それとも大筋としてすでにある程度決着がついたのか。

 

どちらにしても、これまで通りでは通じないことがさらに増えていくことは間違いないでしょう。

 

ここ最近起きていることに対しては、これまである段階で力をもっていた存在たちがいままさに引きずりおろされようとしていることに対し、悪あがきしているようにも思えることもあれば、金の切れ目が縁の切れ目であるかのように、新たな時代に向けて過去のしがらみを断ち切っていこうとしているようにも見えます。

 

ただ、それはトップが取って代わることで多少の方針の違いはでてくるものの、根本的な弱肉強食のシステムが変わるところまではいかないでしょう。

 

弱ければ支配されるし、ときに奴隷や家畜として扱われ、都合よく使い捨てされることも変わりません。

 

賢くなければ賢いなりの扱いを受けますし、バカはバカ扱いされます。

 

自分の得になる人とは仲良くしたいでしょうし、悪意をもって立ちまわったり協力する人たちとは距離を置くか攻撃的になって対立が生じます。

 

これまで好き勝手されて腹を立てていた人たちがこれから大きく動くとすれば、ためこんだ憤怒のエネルギーは相当なものですから、これから激しい状況へと突入する地域も増えるかもしれません。

 

いままさにそうした火種が大きく燃え広がろうとしている瀬戸際、そう思わせる報道が為されています。

 

 

 

ただ、周りがどうなろうと、助かる人は日常的に助かるなりのことを続けています。

 

いざというときに何もしてこなければ、なにもできないでうろたえるだけです。

 

好きなこと、大事なこと、やらなきゃいけないこと、責任があること、様々理由はありますが、自分が困らないように考え、自分のために一生懸命やれることをすこしでもやって過ごすことができれば、生きている意味もそれなりにでてきます。

 

助かるなりのこと、というのは人それぞれですが、よりよく生きているかどうか、ということが超重要だと考えています。

 

通常、人は自分がいつ死ぬかはわかりません。

 

私達の都合で死ぬ時期を決められるのであれば予定をたててそのように準備すればいいのですが、もしわかることがあるとすれば、余命宣告されて大まかな残りの寿命がわかるくらいのものです。

 

時間をかけて成し遂げたいことがあったとしても、時間が足りなければ準備をしても納得いく成果は果たせません。

 

私たちは完璧な存在ではありませんし、自然死のような形での死期を決めることもできません。

 

しかし、自分以外のなにかによって決められている可能性はあります。

 

ない、とはいえないでしょう。

 

では誰がそれを決めているか考えてみると、それは自分より上位の存在です。

 

上位といっても様々な存在があります。

 

会社組織で平の立場だと、上には主任や課長に部長、専務や社長に会長、社外取締役なんてものまであります。

 

ある段階の存在が決めたことであっても、より上位の存在がそれを上回る理屈や責任をとるようなことがあれば、その決定を変更することができると私は考えています。

 

ですから、最終的な決定権がどこにあるか、を考えてみると、この世界全体に対しての決定権をもつ存在、もしくは存在すべての集合体「有」がどういう方向性のもとに動いているのか、有ろうとしているのかわかることが大事になってきます。

 

悟った人から話を聞く、ということは、より上位の存在がどういうことを大事に考えているのか、どういう方向性に進もうとしているのか聞くチャンスでもあります。

 

事象は変化し続けているなかでおきるので、登山の途中で道を変えることがあるように臨機応変に都合で変わることもあるでしょうが、より上位の存在が目指す方向はそうそう変わることはないでしょう。

 

例えばそれを知ってすべてを理解できなかったとしても、自分の方向性を決める際に少しでも活かすことができるかもしれません。

 

よりよい方向に軌道修正できたならば、その人は生きやすくなるはずです。

 

よりよくなければ、やり方が間違っているので、さらに見直して再修正すればいいだけです。

 

全託として全体の方向性に自分の方向性を近づけていけば、全体の一部としての私たちが方向性を合わせようとしているのですから、考え方のみならず行動もあっていくほど、気が合う仲間ではありませんが優先的に扱われる可能性があります。

 

(それを責任転嫁などで一時的に捻じ曲げることができるのが、力を持った存在たちと、それを支える愚かな羊たちです。)

 

ただ考えているだけではなにもしていないに等しいです。

 

この世界は形があり、つねに変化しています。

 

そして変化し続けています。

 

動き続けています。

 

ですから、私もよりよく生きるといい方向性のもと、行動に移していくことでようやく全体と調和し始めていくのです。

 

より熱意をもって動けば活動的に全体が動くことにもなっていきますし、より考えて賢く動ければ具体的で合理的な的確な全体の変化へとつながっていくかもしれません。

 

エゴ中心で生きている状態ではそれらを確認することは難しいかもしれませんが、理屈ではそのように考えることができると思います。

 

ひろかねさんから教えられた全肯定という言葉がどういう理屈で機能していくのかわかるほど、私たちは悟った人から話を聞けたことのありがたさを、日々の実生活のなかで実感すると思います。

 

 

 

大変なことはこれからもつづきます。

 

その大変さの中にあるほど、よりよく生きる方向性を出して理解に努めて行動している人は、全肯定の知識を覚えている状態から、意味を理解して生き方を変えていく機会にしていけることもあると思います。

 

 

 

 

 

 

 

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