◎夢うつつの中へ
すべては繋がっている、ということを踏まえて考えてみると、今起きていることにはすべて原因があり、それは過去どこかにその原因となることがあります。
先日トンガで火山の噴火がありましたが、大地のつながりの中で新たな噴火の引き金となることも感じています。
ただ、地震と同じで、時期について何か感じるわけではありませんし、わかったからどうこうできるものでもありません。
受け止めるべきカルマであるならば、どうあがいても向き合うことになりますし、解消できるなりの力がつけば、受け止める感覚すらなく済んでいくこともあるでしょう。
よくなるなりのことをやったからよくなり、悪くなるなりのことをやったからわるくなる。
繋がりを通して自らに返ってくるのであれば、その起点となるいまをどう生きるかに尽きるのではないでしょうか。
最近、社会に対してなにか膜が張ったような鈍い皮膚感覚の中で皆が生きている感じがしています。
清濁入り混じった情報の中で振り回され続けることで、なにかぼけてしまったというのか、鈍くなってしまっている感覚を頼りに、多くの人たちがよくわからない方向に歩み続けているようにも思えています。
自分が無い状態が色濃くなっているようです。
平常ではない状態に積み重なる日々のあれこれ。
そうした毎日の積み重ねがもたらすこれからは、多くの人たちにとって現実逃避した世界で過ごす毎日になるのではないかとさえ思えてきました。
例えば先日書いた「※」害が実際に起きたとしても、そのことに目を向けずに自分はその人たちとは違う、自分は大丈夫、とひたすら言い聞かせ続けながら過ごす人たちのイメージが何度も浮かんできます。
以前騒がれていたアセンションやディセンションというくくりに該当しない、グダグダな世界のなかで、ここで生きていくしか仕方ない、そう思いながら過ごす人たち。
ある種のつよいショック状態の中で、その夢から覚めることなく一生を終えていく多くの人たち、そんな感じもしています。
◎これも二極化、かな
これからある時期を越えた時、医療制度が限界を迎えるとします。
海外に暮らす人の話を見ていて、日本人は全体的に健康的らしい、ということを感じることがあります。
欧米に比べて新型コロナの感染者数が少なかったり、良心とは別に昨年のように国内での陽性者数が小康状態になった一つの理由がこれではないでしょうか。
その健康面での土台は、例えば手洗いや靴を脱ぐような衛生面や緑茶を飲んだり発酵食品に日本食などの食生活の影響が考えられます。
その他にもあるでしょうが、一つには国民皆保険制度があると思っています。
これの良し悪しはともかく、自信がなかったり不安の強い多くの人たち、実際に体調を崩してお世話になった人は、ずいぶんたすけられて安心感を得てきたはずです。
アメリカで1週間入院したり手術を受けたり、歯の治療をしたりすれば、日本では考えられないような金額を請求されることは当たり前だそうですね。
その保険制度は、国の管理の下で運営されています。
健康保険料や税金で賄われるところがあるため、1割や3割の負担で済んでいます。
しかし、それが何かの事情でこれまでのようには利用できなくなると、それまであまり意識することなく気持ちの支えに一役買われていた人たちのメンタルが、大きく揺らぎます。
医療費が高騰し、健康保険料や税金があがるにとどまらず、自己負担額も5割や7割になるようなことになれば、社会や経済状況と相まって、安易に受診ができなくなるかもしれません。
コロナ対策を優先して経済活動をないがしろにした尻ぬぐいで支払われる補助金や一時金など、公的に注ぎ込まれているお金の多さは、この先さらに強烈なインパクトが生じた時に対処する余力を残さない可能性があります。
そうなると、病院の運営もままならなくなり、病気になるリスクは高まるばかりです。
しかし、日本には食事や生活環境に地域に根差した習慣などがあり、それらは特別なことをしなくても健康的に生きるきっかけとなりうるものです。
これはあくまで可能性の話ですが、医療制度になにかそうした問題が起きるとすれば、人々はその生活を半ば強制的に見直すことが求められるでしょう。
過度な依存は、無くなって困るという焦りを生みます。
有れば上手につかい、無ければ無いなりに考える。
どう転んでも自分が困らないよう、無いなりに生活できるようなことを少しずつ考えて取り入れておくといいのではないでしょうか。
例えば、人付き合いの中で生じるストレスを減らすために考え方を改めることなど、これまでこちらで書いてきたことはもちろんですが、食事の量を減らしたり、適度な運動や過ごしやすい住まいを考えたり、身につける衣類などの素材もこだわり、病院に行かなくても済むような体調を維持しやすい状態について考えてみるといいでしょう。
前に書いた「※害」のようなことがあると、それに関わったことで大きく信頼を損なう人たちがいます。
その結果、その仕事は今よりは大きく衰退することが考えられます。
そうなった時に困らないように先を見越して、いまやたらめったら資金集めをしているのか?と勘ぐってしまうこともありますが、ともかく、自分の体の管理を丁寧に考える機会が増えていくのではないかと思います。
慣れないことをやると最初は大変ですが、ある程度習慣化してしまえば、それほど気にしなくてもなんとかなっていきます。
体全体に影響を与えるといえば、例えば土台となる足もと、エコルさんのような靴が注目されるかもしれません。
また、眼鏡が体に与える影響についても、面白い話を見かけました。
発達障害の子供たちは、日常目にする光景の中で、光を強すぎると感じることがあるそうです。
その光を調節してあげるだけで、穏やかに過ごしやすくなることもあるのだとか。
考えてみると、最近の家やマンションなどの内装は、白を基調にした壁紙、高い天井と影を減らした明るい照明などです。
日本家屋でよく見られた土壁や障子紙に畳、木の板や土間、影のある床の間や軒下など、光を反射するよりも吸収して目に優しく映る素材や作りに空間などがあまり見られなくなりました。
どちらが目に優しく気持ちを穏やかにするかは人それぞれだと思いますが、発達障害と言われる要素は多くの人が大なり小なり持ち合わせているもので、光に対する感受性についても、そういったことから日常的に影響を受けているのではないでしょうか。
そういうメリット、デメリットはそれぞれあるでしょうから、体への負担なども踏まえながらそれは上手に使い分けて、生活環境を改めて考える人もいるのではないかと思います。
それぞれの専門家が、健康面を踏まえて考える機会が増えていくかもしれませんね。
日光に当たることもコロナ以降意識されることが増えていますし、居住空間に対する考え方が変わることも重なれば、ごみごみしたところよりは郊外や地方の方が環境がいいので、そちらに移り住む人もいるでしょう。
これから人々の意識が変わるにつれ、仕組みや価値観の多彩な変化がおきてくるため、ある面ではうつろな感じに埋没していく人たちがいる一方で、あきらかにそちらとは異なる方向に進む人たちも増えていきます。
ただ、自然災害などもあるでしょうから、臨機応変にしばらくは動き続けることになるかもしれませね。
これからますます閉塞感が強まる一方で、このように対照的な感じも強まっていく感じがするため、どこに目を向けるかで世界に対して感じる印象が全く変わっていきそうです。
なにはともあれ、自分がなにをどうするか、ですね。
今回は、先日少しふれたAIのレポートに書かれていたことも踏まえて書きました。
どんなことも「可能性」であるうちは可変です。
結果が出るまでのできることがあるうちに、自分が望む方向に少しでも近づけるよう取り組むことが、私たちの運命をよりよいものに変えていきます。
それが、自分の幸せのために生きる私たちにできることです。