改めて、エゴについて 後編と余談

◎岐路に立つ人たち

 

前回からの続きです。

 

何かを否定することなく、それを成し遂げられることはすでに実証済みです。

 

私はまだ途中ですが、そのエゴの書き換えが全体との調和を徐々にもたらしてくれますし、なにより日々生きていて幸せに気づいたり感じやすくなっていきます。

 

不完全な自分を認めつつ、そこから少しでもよくして生きたいと思って過ごす毎日は楽ではありませんが、納得した時間の積み重ねとなって、自分に目を向けやすくしてくれたと感じます。

 

いきなりなにか大きなことをしても、習慣が変わるわけではありません。

 

一流を目指すといっても、日々の積み重ねの先にそれはありますし、目の前のことに集中できるからこそ一流の結果も出せるようになっていくのですが、その目の前のことに集中できる環境づくりも、そういう段階に到達する日々の取り組みなのです。

 

ふだんから一緒に過ごしている家族、長い時間を共にする職場の同僚、そういう人たちとの関係性をよくしておくこと。

 

その関係性を当たり前と思ってしまうと、その相手に対しての横柄な態度をとったり、相手には直接嫌なことをしていなくても、相手以外の周りに対しての失礼なふるまいなどが相手を不快にさせることもあり、気づかないままそういうことを日常的に繰り返してしまっていることがあります。

 

それは一緒にいたい、という態度や行動ではありません。

 

それを繰り返して、一緒に気分よく過ごしていけることも少なくないため、改善しなければ離れていくことになります。

 

いまそういう時期を迎えつつある方が増えているようです。

 

結果、あとで後悔しても遅い、ということもあるので、まずは身近な人との関わりを考えてみるといいでしょう。

 

 

 

 

◎エゴを変えていく

 

人によっては離れて暮らす実家の両親のこと、単身赴任でたまにしか会えない伴侶、昔からの友人、そういう人たちとのことも、時に頭を悩ます場合があります。

 

精神世界でよく「いま・ここ・自分」ということがいわれますが、自身の過去の後悔、トラウマ、何度となく思い返される憎しみや悲しみ、これからの将来への数々の不安、自分のみならず家族の行く末、日常的にやり取りする周りの人とのこと、なにかにつけて気にしているあれこれはたくさんあるはずです。

 

そうしたことをクリアしていかないと、今をまともに生きられないよという話です。

 

自分の幸せのために生きているのに、話題に上ったり頭に浮かんで考えていることは、いまではない過去や未来のこと、目の前にはないどこかの仮の話、自分ではだれかの失言やどうでもいいワイドショーの話、など。

 

自分の幸せのために注ぎ込んだ分だけ結果がでるのは、一流の人の取り組みと同じ話です。

 

エゴはその視野の中で最善と思えるやり方で現状を維持したいので、自分が成長するようなこと、実際に行動に移してよくしていくこと、そういうことはなかなかやりたがりません。

 

特に何もしないで現状維持できれば、エゴは思うように生きられているので、それなりに安心もするし不満は少ないのです。

 

自分が特別な存在だと思い込んで主張したり、人を陥れて正義を語ったり、自分が成長しなくてもそれでちやほやされれば思いは果たせているので、それはそれで気分がいいことです。

 

やりもしないことでラッキーなことが起こったと思えば、さらに幸せを感じます。

 

しかし一方で、地道に取り組んで思うようなときに結果がでないようなことは、やりたくないのです。

 

やることやらないで、楽して得したいのです。

 

やることやらないはどうかと思いますが、楽も得も別にいいことです。

 

ただ、やればもっと楽に生きられるよ、きちんとやればやっただけよりよい方に変われるよ、それって生きやすくなることだから得なんだよ、ということをしつけていけるかどうか、そのために自分に向き合うのです。

 

 

 

 

◎自分を好きになっていく

 

なにかうまくいかないとき、それは自分の思い込みに紛れ込んでいる否定の数々に気づくチャンスです。

 

それに気づいた時に変えていくのです。

 

変えようと思わないと、気づいてもすぐに他に目先を変えてしまいます。

 

視界に入っていても、得にならない、役に立たない、関係ないと思えばスルーしてしまいます。

 

しかし、ある方向性を定めることにより、その方向に向かっていくうえで課題となることや問題となっていることに気づきやすくなり、ようやく意識して目を向けられるようになっていきます。

 

方向性をだし、問題に気づけたとき、あとはそれを本当にやりたいと思えるかどうかです。

 

頭ではやりたいと思っていても、言い訳が多くなったり、気が付くとどうでもいい掃除をやり始めたり、関係ないことを考え始めていれば、無意識ではまだやりたいとは思っていません。

 

そこで、現状維持を望む思い込みを書き換えるために、自分がどういうことを信じ込んでいるのか、なにが得だと思っているのか、そういうことをさらに深堀して考えるのです。

 

そして、自分は表向きはやる気があるふりをしていたけれど、実際はなんでそれをやった方がいいのかよくわかっていなかった、自分をよくすることをそれほど大事だと考えていなかった、などと気づけたら、そこでよく考えてみるといいでしょう。

 

自分で改めて考えてみて、それでもやはりやる理由がわからなければ、判断を保留してもいいでしょうし、やらないことに納得のいく理由がわかれば、やらないことでやたらに焦ったり、過剰に自分を責めることも減っていきます。

 

自分のことを嫌いになってしまうと、自分の幸せのために一生懸命になどなれません。

 

そういう確認を繰り返し、自分が目指す方向にあった考え方に気づいて変えることができれば、目の前のことに着実に集中できるようになるため、取り組みの結果も変わっていき、運命もよりよい流れへと転換していきます。

 

目の前のことをまともにできないで、うまくいくはずがないという当たり前の話です。

 

 

 

 

◎覚醒体験を振り返り

 

覚醒を目指す人たちがいますが、まずは日常をクリアした先の話だということをよく理解してください。

 

ただ、その日常をよりよくしていくことが、覚醒への基本的な取り組みとして理解できれば、今をよくしながら自身の進化の道筋も歩いて行けるのですから、そこに無理は生じないはずです。

 

誰かが犠牲になったり、何かを否定したり我慢したり抑え込むのではなく、あるものを有るとその存在を肯定し、不満を持ち越すことなく納得しながら生きていくことができるようになることが、今の時代を生きる私たち誰もができる進化の道筋であると考えています。

 

何年か前の私の覚醒体験は、神さまでも私という存在を消すことはできない、という気づきを伴うものでした。

 

なにか特別なものを見たわけもなく、ただ感受性が大きく膨らんだ状態を経験した中で気づいたことでした。

 

それは私にとって、その後の一つの指標となっています。

 

自らの存在を強く肯定するその気付きは、全肯定や自由を理解するためにとても重要なものとなっています。

 

今振り返ってもシンプルな体験と気づきでしたが、とても力強く確固たるものでした。

 

 

 

 

◎余談

 

安倍総理の辞任が発表されたようですが、これで日本は大きな一線を越えていくことになります。

 

次の総理が決まってから、この日本は新たな運命へと移行していきます。

 

中国が周辺諸国にあれこれ動き始めていますが、なりふり構わなくなってきたその様子は、余裕がない証です。

 

近い将来、トラブルがいっぱいおこるだろうね、とひろかねさんは話していました。

 

これから世界はますます大きく動いていくことになります。