胸を張って

◎ひろかねさんの言葉

 

こういうときに限って人の常識が出てくる

 

それをやってどうなるのか考えてみろ

 

常日頃からそういうことを考えてこないと

 

いざというときにそれができない

 

 

 

◎普段からやることで

 

「常識」という多数の人たちの意見がありますが、それが自分にとって意味があるかどうかは別です。

 

「意味がある」というのは、「自分が幸せに生きるために役に立つ」ということです。

 

「他の人がやっているからやっていい」「たくさんの人が言っていることだから正しいに違いない」、そう思い込んでなにかをしても、そのたくさんの人たちがバカばっかりだったらどうするのでしょうか。

 

(「アホ」でもいいのですが、この場合の「バカ」というのは、考えなしに生きている状態とお考え下さい。)

 

みなそれぞれに違いがあり、その違いのなかで、思い込みにまみれた人もいれば、自らの幸せを真剣に考え生きている人もいます。

 

私たちは他の人たちとともに社会生活をおくっているので、他の人たちが嫌がることをしないよう配慮するためにも、常識を踏まえてものごとを考えることは大事なことです。

 

しかし、その常識がそのまま自分の幸せのために役立つかといえば、個々に違いがあるのですから、そんなはずはありません。

 

「それをやってどうなるのか」、普段からそうしたことを考えてこないと、今回のような慌ただしいときに急に思い立ってやり慣れないことをやろうとしてもできないことです。

 

方向性を出すことが身についていなければ、自分がどうしたいのかを考えることなく、その上自分でまともに判断できないために常識に囚われてしまい、結局自分の幸せのためにいまするべきことを見失います。

 

その見失ってやった結果が、その先で返ってくるのです。

 

「後悔なく生きる」とは、いつどんな時でも自分が納得した決断をして行動することで果たされていきます。

 

平時にそれを行うことも容易ではないのですが、急場や不測の事態であればなおさらです。

 

普段から少しずつ続ける中で、慣れないところやできないところ、おかしなところなどを気づいたときに繰り返し直しながら、いつでもそれができるように磨いていくのです。

 

そのことを何年もかけてブログに書き、話を聞きたいといらしてくれた方にはお話をするようにしてきました。

 

 

 

◎価値のある生き方

 

自分の思いを生きるのではなく他人の価値観を自分の中心に据えて生きた時、自分の思い通りではなく、どこかの誰かの思い通りに生きていることに気づいてください。

 

自分の幸せのために、自分の思いを自分で生きることは、代わりがききません。

 

「自分」のところを「他人」に置き換えてみれば、「他人」が不特定多数をさすため、代わりがきくことがわかると思います。

 

それが特別に思える誰かであっても、結局同じです。

 

代わりがきくものと代わりがきかないもの、どちらに価値があるでしょうか。

 

自分を生きる人がこれからの時代をつくっていき、自分がない人はこれからの大変な時期に、意味のない生き方をする中で意欲を失い、衰退していきます。

 

そして、自分を生きるための方法として、ひろかねさんは、まず方向性をだし、そしてエゴのチェックとコントロールをすることを教えてくれました。

 

 

 

◎自分のことすら

 

皆一人一人が自身の運命の創造主なのですから、まず自分のことをきちんとしていくことです。

 

自分の幸せのためになることを考え、例え思うような結果にならなくても納得できるところまでやれたなら、あとで後悔することは減っていきます。

 

そして、思うように取り組めることで幸せを感じ、少しでも結果を出せるように成長していくことで、実態が伴った「よりよくという方向性を出した生き方」へとシフトしていきます。

 

自分がよくなることをやらないで、意味があることをしているといえるでしょうか。

 

考えなしに生きていてよくなるはずがありません。

 

自分のことよりもまずは社会や全体のためになることをしたい、という人も中にはいるでしょうが、日々の仕事や家族やその他係わる人たちとの関係性など、問題なく過ごせている方はまずいません。

 

自分のことすらまともにできない人間が、全体のためになることなどできるはずがないのです。

 

 

 

◎自己犠牲はする必要がない

 

よくわからない神かなにかにいわれるがまま、自己犠牲として、自らを捧げることが天国への道筋であるかの如く信じ込んでしまう人たちがいるようです。

 

社会生活でも似たようなことがあります。

 

国に言われて、会社に言われて、偉い人に言われて、「人のためになるからいいよね」と犠牲をやんわり強いてくるケースは少なくありません。

 

自己犠牲は本来する必要がなく、それぞれがそれぞれの幸せのために生きているのであれば、誰も犠牲にならないやり方をまずは真剣に考えることです。

 

それをしないで自己犠牲に捉われているうちは、おそらく不満が残る生き方を続けることになるでしょう。

 

そうしたことを考えなしに鵜呑みにして信じ込んだ大多数の人たちが、これまで自分を生きることができないまま停滞していました。

 

そして、全体の一部がそうなってしまったことで、宇宙はずっと現状維持という歪みの循環に囚われてきたのです。

 

私たちは、その循環から抜け出せない多数の人たちの意見を常識としているのですが、それをそのまま信じてやったところで、あなたは幸せになれるでしょうか。

 

自分が好きでやるならいいのですが、「こんなつもりではなかった」「そこまでは考えていなかった」など、あとで後悔や未熟さを口にする程度の判断では、好きでやるのではなくエゴの損得の思い込みでやったというレベルです。

 

それで納得がいくはずありません。

 

エゴの視点で見えたものだけで考えなしに判断するから、誤りに気づけないのです。

 

 

 

◎日ごろの取り組みがあるからこそ

 

国や会社や経営者といっても、エゴの判断に基づいてものごとを決めているので、どこかにほつれはあるのです。

 

そのほつれを見ないままなにかをやったとしても、うまくいくはずがありません。

 

日ごろから考えていかないと、「誰が言っているか」に捉われてしまい「何を言っているか」を考えないため、常識とよばれているものも安易に信じ込めてしまうのです。

 

そういう私たちが作り出す日常にあふれた世界になっているのですから、それらに振り回されないで自分の幸せのために生きるためにも、上位意識とつながることが大事になるのです。

 

繋がることができれば、そこからいろいろ確認しながら上位意識との関係性を構築していき、そのサポートを受けながら自分で判断して生きていけるようになっていきます。

 

そして、あの世に行ってから、『私はここまでやりました』と胸を張っていうことができれば、後悔のない人生をおくったよね、といえるようになっていくのです。

 

(別にあの世に行ってからだけでなくても、日ごろから胸を張って生きていければ、その方がいいと思っています。)