「買い占め」と「3月半ば頃までの注意点」

◎覚悟を決める流れの中にある

 

買い占めについて先日書いたブログ「3月半ば頃までの注意点」の内容にもありましたが、衝動に促されて過剰に反応してしまった人たちが多かった、ということがあるようです。

 

(いまは、3月「半ば」から「後半」に時期が延びています。「注意点」として書いた「衝動」はまだ継続しているので、日常生活におけるそうしたものには、引き続き気を付けてお過ごしください。)

 

そして、それは次の流れを後押しすることになり、負荷としてのコロナウイルスから、すでに次の負荷への転化・分化が起こっているのだそうです。

 

これから半年ほどかけて、また順次様々なことが起きる予定があるそうです。

 

負荷は今後、より広く全体を覆い、より私たちの隅々まで深く浸透していきます

 

数字の上でのコロナウイルスによる感染拡大や発症者の増大は、もうしばらく続きます。

 

しかし、それも気にしていられないくらい、次々となにかが起きていく段階に入ってしまうと、かなり厳しい結果を見せつけられる人も次々出てくることになります。

 

そうなってしまえば、罹患した人の数など悠長に数えていられないでしょう。

 

これまで、有る時期に起こることを3年ほどに引き伸ばして現象を緩やかにしようとしたこともあったようですが、結果的に溢流を引き起こすことで現象化を早めて激しくしてしまったのかもしれませんし、実はそれがあちらの目的なのかもしれません。

 

経済などは一見立て直せたように見えても、人々の意識が作る社会現象などはしっかり根を張り、しぶとく現象化しようとし続けます。

 

現象化とそれらに対して抑え込もうとする働きとのせめぎ合い、その一つの区切りが、3月後半ということになるのでしょう

 

抑え込めればグダグダな世の中へのシフトへと傾き、後手後手で有効な手を打てずに本格的な溢流になっていくのであれば、変革という流れになるので、どちらにしても、前回の余談のところで書いた「覚悟を決める」という流れの中にあるのだと思います。

 

 

 

◎いまはまだ理想的ではないのだから

 

私は、エゴの好き勝手を多く含んで成り立つこの世の中ですので、なにかをきっかけに買い占めなどが起こることもいまは仕方がないことだと思っています。

 

必要量を互いに分け合えばいいと思っても、理想的な人たちだけでこの社会が成り立っているわけではありませんので、現実を踏まえて考えたなら、「困った時はお互いさまで分け合おうとする人」もいれば、「自分の事だけで買い占めようとする人」もいる、と認めたうえで、自分がどうするのかを考える必要があります

 

歪みの多い社会で暮らしているのですから、自分に本当に必要だと思えば、そうした社会を踏まえて事前に備えておいたり、無理のない適切なタイミングや前もって行動に移すことなどしていかないと、これからの時期、混乱が増すほどに「手に入らない」ということもでてきますし、思うようにいかないことも増えていきます

 

 

 

◎「自由に生きる」ことの「自由」には

 

以前ひろかねさんから聞いたお話の中で、「自由の中には、正しいものを拒否する自由もあれば、犬死する自由もある」ということを言われて印象に残っていました。

 

自由を認めて生きるには、きれいごとや都合のいいことだけを認めるような狭い視野の段階では、まだやることが残っています。

 

「肯定する」ということもそうですが、自他の自由を認めて生きるにも、私たちは相当に頭を使っていかないとまともに実践すらできない、と、事あるごとに考えさせられます。

 

よりよく生きていこうと思うなら、その後に不満が残らないようにしていくことです

 

不満が残っていると、自分の幸せのために今に集中して生きることが難しくなってしまいます。

 

「ここまでやってダメなら仕方ない」「気持ちを切り替えて、あるものでやっていこう」そう思えれば、一時不満が出ても、それを持ち越すことは減っていくでしょう。

 

「大事」、「必要な物事」、そういいながら、何もせずに文句やきれいごとを言ってなにも行動に移していなければ、それは行動に移すほど大事でも必要でもなかった、という態度であり、思いの表れなのです。

 

それなのにあとで不満や愚痴が残るようであれば、自分が日ごろの備えを怠っていたことや、気づいても面倒だからと必要な分を買いに行かないこと、そのように楽した分の正当化のために人のせいにしているのかもしれませんし、本音は「欲しかった」ということかもしれません。

 

よく「許せない」という言葉を発する人がいますが、そうした方はそれを言いたいがために、そういう環境や状況を作り出してそこに身を置いている、ということをひろかねさんから聞きました。

 

よりよく生きる方向性を出している方に対して、デマがどうだとか買い占めをしている人たちのことをどうこう言っている暇があれば、歪んだ自分の思いを見つけて、いま自分がよくなるなりのことをすればいい、ということは、ここでも変わりません。

 

考えなしにエゴの損得勘定の良い悪いで行動を制限してしまい、自分が思うような行動に移せていないのであれば、運命の創造主としての自分の力を自らの幸せのためではなく、他人に明け渡しています。

 

それでは自分を生きているとは言えないのです。

 

自らの自由を認め、自分が後悔なく生きられているか、そうしたところから考えてみてはいかがでしょうか。

 

 

 

◎やるかやらないか

 

いいわるいじゃない

 

やりたくてやってる

 

どうせやるなら

 

よくなることをやれよ

 

 

と、今日もひろかねさんから話を聞いていて言われました。

 

自分のことだけで後先考えずに行動すると、その先で考えずにやったなりのことが返ってきます

 

方向性を出していないからこそ、考えずにやってしまいます。

 

方向性を出しているからこそ、どうしたいのか判断できるのです。

 

なにかあったとき、とっさの判断で後悔なく速やかに行動に移せる判断や決断、そうしたものも身についていれば、変化が激しい時代であっても、身についたなりに生きやすくなります。

 

身についてなければ、「いまの自分は、まだそこまでできないから仕方ない」と、ありのままの自分を認めることで、不満少なく過ごせます。

 

不満が残るようであれば、自分の行動や考え方をチェックすることです。

 

私達にはできることがあります。

 

それをやるかやらないか、それだけのことです。