自己犠牲について ①

◎不満をためてまでやる意味あるのか

 

最近、比較的身近で不満をため込んだ人のなかに「自己犠牲」という言葉が出てくるケースが続けてあったので、改めて書いておこうと思います。

 

私は、自己犠牲なんてまったくする必要がない、そう考えています。

 

ですから、わざわざ自分を犠牲にして悩むくらいなら、犠牲にならないで済む方法を考えることに頭を使えばいいと思っています。

 

自由があるので、自分が好き好んでやる分には、やりたければやればいいでしょう。

 

しかし、好き好んでやっていれば、不満がたまることはありません

 

不満がたまるということは、嫌々やっているか、納得しないまま我慢しているか、なにか理由があるのです。

 

大事なことだと納得できれば、たいして不満もたまりません。

 

我慢できなくなれば、解決するように考えて動けばいいのですが、問題解決できないと思い込んであきらめたり、言い訳ばかりして先延ばしにしながら我慢し続けることで、自分をゆがめていきます。

 

 

 

◎それで後悔ないですか?

 

例えば、「神さまにすべてをささげます」ということを、やりたくてやるのであれば、地べたにはいつくばっても、血反吐を吐いて悶絶していても、不満がでないはずです。

 

しかし、最終的に周りの人たちがのんきに楽していい加減に生きている姿を目の当たりにしたとき、自分だけ死にそうになりながら犠牲になっていると知ったら、納得いくでしょうか。

 

納得いかなければ、不満がでたり後悔することでしょう

 

 

 

◎自分の言葉のウソに気づくとき

エゴの視野はとても狭く、「そこまでは考えていなかった」ということから後悔が生まれます

 

その時に初めて自分の言葉のウソに気づく のです。

 

すべてをささげる覚悟などないにもかかわらず、「その方が得に違いない」と内心思い込んで宣言までしてしまうと、痛い目をみながら、いい加減な言葉を使っていたことにあとで気づくことになります。

 

「あなたのおかげでみんな幸せだね。全体の歪みも減ったし、これからも犠牲よろしくね」とニコッと神さまに微笑まれたとき、「ああ、神さまのお役にたてて私は後悔ないし幸せだ」、そう思えるなら、ウソはなかったということになるのでしょう