搾取構造とお祈り 後編

取り違えたお祈りをすると

 

例えば、私が貧しいのは社会のせいだ、国が悪いんだ、といっている人がいたとしても、たいして働きもしないでそういう文句を言っているのだとしたら、あなたはどう思うでしょうか。

 

また、「それなりに働いている」「自分なりにがんばっている」、そういう方もいるかしれませんが、「なぜあの人と同じ生活ができないんだ」と不満をもらすその「あの人」は、それなりとか自分なりではなく、その人以上に必死に働いているだけです。

 

頭を使って考えて工夫し、結果がでるなりのことをやっているだけです。

 

そういう当たり前のことがわからず、ましてやそこまでやらないで文句をいっても、結果がでるなりのことをやっていないのに、文句を言うこと自体がそもそもおかしいのです。

 

お祈りを信じてやることはいいと思いますが、最終的に結果がでなくて不満がでるとしたら、祈ってばかりいてやることをやっていなかったから、ということにならないかチェックしたほうがいいです。

 

守護霊さん守護神さんをあてにして、祈っているから大丈夫だろうと高をくくっていると、痛い目にあってからでは遅すぎるという時期に入ってきているかもしれないのです。

 

 

 

どこに目を向けるのか

 

お祈りに乗っかってしまえばゴール、と考えるよりは、自立までの補助輪としてお祈りはある、と考える方がいいと思います。

 

やることやってお祈り、ならいいのですが、やることやらなくても「誰かがどうにかしてくれる」という思いこみがお祈りに対して出来上がってしまうと、「お祈りをしているからいい」「私は大丈夫」と、それ以上なにもしなくなって立ち止まってしまうこともあるため、知らず知らずのうちに責任転嫁や自己都合に逃げ込んで時間が過ぎてしまいます。

 

それよりも、自分の日々の言動や行動を見返してチェックし、おかしなところを改めていく方が、効率よく自分をよくしていけると思います。

 

いまやれることがあり、それが大事と気づけず、甘い考えで楽して得したいと思っていると、お祈りを自分都合で利用して終わります。

 

時間がそれほど優雅にあるとは思えませんので、お祈りをしたい方はそのあたりを考えていただくといいと思います。

 

今回、お祈りについて聞かれることがあったので、書くことにしました。

 

人によっては厳しく感じる内容かもしれませんが、「受け止めていけるから大丈夫」といわれていますので、掲載することにしました。

 

 

 

余談

 

「開いた蓋」などのブログを数話、去年の7月に書きました。

 

改めて読み返してみると、あそこに出てくる亡者たちは、「だれかが何とかしてくれる」「どうにかしてほしい」で立ち止まって、それ以上自立に向けてよくなろうとはしない人たちに通じる感じがします。

 

BBSで髪や骨を食べる話がでていましたが、まんま餓鬼や亡者のように私には思えるため、ずいぶんと方向性の違いがはっきりしてきたな、と思っています。

 

「あそこには、もうあまり関わらないほうがいいよ」と言われているので、これくらいにしておきます。