言葉をおろそかにする

おろそかにしているものは

 

私たちは普段無意識に話をしたり聞いたりしているため、言葉をおろそかにしています。

 

「しがちです」と書こうと思いましたが、正しいことがわかならない段階ということは、おろそかにしていると言い切っていいでしょう。

 

「言葉」というのは、「思い」ということもできます。

 

つまり、因果応報の理屈で考えれば、「自分自身で自らの運命をおろそかにしている」ということになっていくため、そういうことを考えながら読んでみてください。

 

 

 

わかった「つもり」で終わっていませんか?

 

いらしてくださる方たちを見ていて面白いのは、神さまの言葉として伝えるときと、私が普通に話すように伝えるときで、表情や態度が結構変わる方が少なくありません。

 

「誰がいっているかではなく、なにを言っているかで判断する」ということはこれまで何度もお伝えしてきたのですが、「上位意識だから」「神様だから」という特別視があり、いまだに理解されていないことがわかります。

 

また、「身近な人ほど大切に」と、お伝えしたことがありましたが、家族との会話ほどおろそかにしている方も、かなりいるのではないでしょうか。

 

そうしたことを振り返り、改めてチェックしてみてください。

 

気付けたことがあれば、行動に移していくことです。

 

 

 

すでに一通り書いてきました

 

私たちは感情に働きかけるような強い表現だとハッとして考えるのですが、そうでないと軽く受け流すことも少なくありません。

 

以前も書いたことですが、これまで書ける必要なことや大事なことは、ある程度書いてきました。

 

補足すればいいことは、まだまだあると思っています。

 

これから実際どうなるのかは結果をみないと分からないことですが、エゴが喜ばない展開になった場合、

 

「なんであの時、教えてくれなかったの!?」

 

とは言わせない、そう断言できるだけのことを私はブログで書いてきました。

 

ひろかねさんのBBSでの文章が、これからの宇宙の教科書と神さまがいったことも、すでにお伝えしてあります。

  

理解できるかどうかは、その人次第です。

 

わからないまま放置するのもその人が決めることで、それ以上わかろうとしなかったことが、結果としてその人に返ってきます。

 

 

 

できることは結構あります

 

正しいことがわからない段階で時節を迎えるのであれば、かなり大変だと思います。

 

エゴというのは、全体の一部しか物事が見れない状態なので、偏った見方になるのは仕方がないのですが、そこから成長することで、そうした偏りも段階を経て解消されていきます。

 

何度も書いていることなのでうんざりする方もいるかもしれませんが、理解できているつもりでおろそかにして読み流していることがないか、やる気のある方は、できるところでできることをできるだけやってみてください。

 

自分が理解できているかは、はっきり自覚しづらいものです。

 

人に分かりやすく説明できるところまで理解に努めていただくと、ある程度分かってきたことになると思います。

 

また、自身のエゴのチェックももれているところは多々あることでしょう。

 

やりたくないような苦手意識、ゆるせないなどの嫌悪感、なぜ自分だけという卑屈な思いなど、様々なチェックをして気づけた分だけ、意識レベルを上げるきっかけになっていきますので、是非前向きに取り組んでいただくといいと思います。

 

 

 

なにを信じるか

 

先ほども書きましたが、これからの展開について実際どうなるかは、その時になってみないとわかりません。

 

神々の計画については変更が時折あるので、結果がでるまでその正しさが判断できないという難しさがありますが、いらしてくださった方に対しての上位意識からの指導内容については、その方たちが実感し納得できることも多くあるため、正しい内容で指導してくださっていると感じています。

 

お伝えしている全肯定は、いつでもどこでも通用する考え方です。

 

それを身につけることが、これからの自分にとってどういう意味をもつのか、そうしたことも考えてみてください。

 

 

 

そのとき本当にできるのか

 

ずいぶん前にはじめのブログで似たようなことを書いたかもしれませんが、もし大変な時代に入ってから取り組んでも、全肯定が「できるようになること」がボーダーラインであるなら、おそらく間に合いません。

 

「わかるようになること」が基準であれば、多少ハードルは下がりますが、人の話を聞く余裕がないような執着バリバリの時に、思いこみをどうこうしようとは考えられないと思います。

 

自分自身がそうなのに、身の周りの大事な人たちに対して、自分ができていないそうしたことを求めることもあるでしょう。

 

そのようにして、エゴの整理ができないまま同情がでまくれば、疲弊していくだけです。

 

そして、自分の「やらなかった」という取り組みの結果が返ってきただけなのに、責任転嫁で「誰か」や「何か」のせいにして、「搾取されているんだ~!」というのであれば、行く末はほぼ確定でしょう。

 

仮にこれが極端な例えだとして、そうでないもっと穏やかな毎日を生きるにしても、いま落ち着いて学べるこの時に、自分の幸せのために全肯定の考え方をできる限り理解しておくことは、無駄にはならないと思います。

 

 

 

余談です

 

最後に余談です。

 

昨夜、このブログの原稿もある程度書き終えて帰ろうとしたとき、

 

「ありがとう」

 

と、やさしい女性のようなかぼそい声が、不意に私の意識の中で聞こえました。

 

それがどういった存在なのかはわかりませんが、

 

「このブログを書くことについて、ある程度の区切りがつきそうだ。」

 

そう感じました。

 

この仕事を始める転機となった心の声に、どこか似ていました。

 

 

 

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